妻の罵倒にすら愛は宿る『春は馬車に乗って』 横光利一:読書感想

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今回ご紹介する作品はこちら↓

春は馬車に乗って   横光利一   青空文庫で公開中

横光利一(よこみつりいち)と読むんですが、

皆さんご存知でしょうか?

私は青空文庫でたまたま見かけるまで名前すら知りませんでした。

彼の名前で検索しますと、

出てきた情報が、けっこうすごいんです。

師匠は菊池寛(雑誌『文芸春秋』の創刊者)。

友人は川端康成(日本人初のノーベル文学賞受賞者)。

「新感覚派」と呼ばれる、戦前に流行した文学形式を代表する作家でもあります。

なかなかに読書家心をくすぐる内容じゃないですか?

加えて、彼の文章から受ける印象も、個性的な魅力を感じさせるんです。

調べていくと、彼が属していた「新感覚派」という文学形式が

目指す文章自体が、特徴的ではあるんです。

しかし、他の新感覚派の作家陣を読み比べてみても、

横光利一の文章は言葉の選び方一つとっても独特で、

「彼にしか書けない文章」を書く作家さんだと思います。

『春は馬車に乗って』は横光利一の代表作でもあり、

彼の大恋愛の末に結ばれた妻・キミを題材にした

亡妻シリーズ3部作の1作でもあります。

横光利一文学の個性と亡妻シリーズの魅力を考察しつつ、

あらすじと感想と共にご紹介したいと思います。

目次  1.そもそも新感覚派とは?
     2.亡妻シリーズ3部作とは?
     3.『春は馬車に乗って』のあらすじ
     4.夫の愛が宿るのはラストシーンだけなのか?


1.そもそも新感覚派とは?

まずは横光利一の文章の持つ個性的な魅力から知っていただきたいと思います。

それを理解するうえで、欠かせないキーワードが

「新感覚派」です。

とは言いつつ、私はただの読書好きで

文学史を研究したことも専門的に学んだこともない

ド素人です^^;

ただ、そのド素人の目からしても横光利一の文章は

「新感覚派」に属する作家陣の中でも

「これぞ新感覚派とよぶにふさわしいのでは?」と

思われる超・特徴的な文章です。

なので、あえて

「ド素人の目線で見ても、

横光利一の文章は特徴的で魅力的なんだよ」と

お伝えする意味もあるかと思い、この文章を書いています。

さて、話を元に戻しまして「新感覚派」です。

文章でグダグダ書くよりも、これが「新感覚派」なんだぞ!

と言われている1文(実はこれも横光利一作品の文章です)がありますので、

そちらをご紹介しましょう。 

” 真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。”

(引用 横光利一 『頭ならびに腹より』)

読むと、擬人法、そして比喩が文章中に使われていることがわかります。

これが「新感覚派」の文章の特徴の一つです。

そして、もう一つの特徴が、表現が美術や音楽の感覚の働き方に近いこと、です。

こういわれても「何のことやら…」と分かりづらいですよね。

調べ物には欠かせない、Wikipediaやコトバンクでも

「新感覚派」を説明するには小難しい言葉が並んでいて、

頭にはてなマークが浮かんでくるような状態でした。

ここは、新感覚派に属する大物作家、川端康成の手を借りましょう。

彼が、「新感覚派」の文章について、分かりやすい例を挙げてくれています。

川端いわく ”従来の文芸では砂糖が甘いことを舌から頭に持っていって頭で「甘い」と理解した。

でも、新感覚派は舌で「甘い」と書く。” ……んだそうです。

他にも、”目で薔薇を見る、という文章を新感覚派の作家が書くと

「私の目が赤い薔薇だ」となる” そうです。

具体例を読むと、なんとなーく、わからんでもないですね。

「感じたままを、文章に落とし込む」、そんな感覚で文章を書く、ということでしょうか。

美術や音楽の感覚の働き方に近いと言われるのも、

どちらも、表現者の感覚や感情ををそのまま演奏や創作にぶつける

言語を使用しない表現方法の芸術だから例えに使われたのかな、と。

本来、言葉では表しにくい感覚や心の動きを、

文学でも可能な限り採り入れてみた、ということなのだと思います。

「新感覚派」についてなんとなくわかった気になったところで、

横光利一の文章を見てみましょう。

『春は馬車に乗って』の冒頭辺りから

「新感覚派」っぽい!と思ったところを引用します。

”子供が二人湯気の立った芋を持って紙屑のように坐っていた。”

”そうして最後にどの味が美味かったか。――俺の身体は一本のフラスコだ。

何ものよりも、先ず透明でなければならぬ。”

紙屑にフラスコ……人間を例えるのにその単語使いますか? という

独特のチョイスだと思います。

でも、直感的にどんな様子が言いたいのか、ぱっとわかる気がしますね。

むしろ言葉を尽くすよりもわかりやすい気すらします。

他に、新感覚派に属すると言われる作家には

川端康成、岸田國士、片岡鉄平などがいて、

それぞれの文章を読んでみましたが、

横光利一の文章が1番、言ってしまえば、変でした。

自分のことを透明な容器に例えるのに ”フラスコ” を選んでますからね。

コップでいいじゃん、と私などは思ってしまいます。

作品中には例の他にも比喩表現が多用されており、

その比喩に使用される単語のチョイスが

例に挙げたように、独特です。

横光利一の文章は、文学評論家の間でも

評価が分かれるところらしいのですが、

読書好きな人が彼の文章を読む分には

評論家のように高尚な文学性のことなど考えずに、

彼ならではの味のある比喩表現を楽しむ、

それが1番だと思います。

2.亡妻シリーズ3部作とは?

いよいよ作品の内容に触れていこうと思います。

『春は馬車に乗って』は亡妻シリーズ3部作の1作品であり、

他に『花園の思想』『蛾はどこにでもいる』の2作品があります。

この亡妻シリーズ3部作は、横光の実体験をもとにしています。

横光利一には駆け落ち同然で一緒になったキミという女性がいました。

キミの実家からも、横光の実母からも2人の結婚は反対され、

最終的に「横光利一のことが好きなら彼のところに行きたまえ」と

キミが横光の親友に言われ、頷いたために、

キミが彼の元に転がり込んで内縁の妻状態になった、ということらしいです。

その時、キミ17歳。横光利一25歳。

若さゆえの暴走めいた情熱ですね。

キミが転がり込んできたその夜、

横光と一緒にいたのは大物作家・川端康成その人で、

2人はのんびり夜の散歩を決め込んでいたのだとか。

しかしその日が結婚当夜だとは知りもしない川端は、

横光に打ち明けられて初めて

「結婚当夜に散歩していたとは」

と驚いたというエピソードが残っています。

川端にしてみれば、

「俺と散歩なんかしてる場合か!?」といったところでしょうね。

情熱的に一緒になった横光とキミですが、

数年後、キミが当時は死の病である結核にかかり、

20歳の若さで亡くなります。

短い結婚生活だったうえに、キミが未成年だったために、

横光と正式に籍を入れたのは彼女の死後になったそうです。

亡妻シリーズはキミが結核にかかり入院している間の様子と

その死後の話が語られています。

3作とも読むと、そのテイストの違いに驚かされると思います。

『春は馬車に乗って』では死が迫るキミに振り回されて疲れ果てる横光が、

『花園の思想』ではキミの死の直前の横光の献身的な愛と悲しみが、

『蛾はどこにでもいる』ではキミの死後、彼女の影に怯える横光が、

表現されています。

どれも愛する人の死の前後で感じておかしくない感情の動きだけど、

それぞれの作品で感情の振れ幅が極端で、

どれが本心だったのかな? とやや面食らうほどでした。

これは推測でしかないですが、

横光が3部作を通して伝えたかったことは、

愛妻の死という人生の大きな出来事で感じうる感情を切り分けて

それぞれの作品のテーマとして表現した……ということかなと思います。

横光の感情がメインとして語られる亡妻シリーズですが、

3作品から見えてくる妻・キミの印象にも

ぜひ注目してみてほしいです。

というのも、3作品とも、生前のキミがどんな人だったのか、

抱く印象がかなり違うんですね。

キミが実際にどんな人だったのか、調べた範囲でわかったのは

「気性が荒かった」くらいでした。

『春は馬車に乗って』や『蛾はどこにでもいる』を読むと、

確かに「キミさん、どんだけ気が荒かったんだろ……」と

夫の横光に同情を感じるほどなんですが、

『花園の思想』を読むと気性が荒いというよりむしろ

「冷静に言葉のナイフで刺してくるタイプ」という印象なんです。

病気になる前の横光との夫婦関係や暮らしがどんな感じだったのか、

思わず想像してみたりして、

読書体験から離れたもはや妄想の域ではありますが、それはそれで楽しかったです。

この記事ではこの後、『春は馬車に乗って』のあらすじと感想をご紹介します。

『花園の思想』と『蛾はどこにでもいる』は別ページで紹介中です。

3.『春は馬車に乗って』のあらすじ

それではこのページのメイン『春は馬車に乗って』の

簡単なあらすじをご紹介します。

病身の妻を介護する夫。

しかし、妻は「わたしのそばを離れたいんでしょ」

「他の女と遊びたいんでしょ」と夫の本心を疑っている。

夫は、そういう面もあると認めつつも、

「お前のそばにいるのは、俺のためだけではない、

他ならぬお前のためだ」と反論するが、

こういう口論の後、妻は決まって高熱を出してしまうのだった。

妻は、夫の仕事にすら攻撃を加え始める。

いわゆる「私と仕事、どっちが大事なの?」というやつである。

夫は「生活のためには仕事が必要だ。仕事はお前の敵かもしれないが、

お前の生活はその敵に助けられている」と理性的に反論するも、

病身の妻には通じない。

彼女の病は重くなるばかりで、好物の鳥の臓物すら拒否を始める。

そして、聖書を読んでほしいとねだるのだ。

不吉な死の予感に震える夫だが、妻の願いを叶えてやるほかはない。

病のあまりの辛さに半狂乱になって妻は苦しみ、

夫はなんとか冷静に対処しようとするが、

それすら妻は気に入らない。

妻の介護に疲れ果てている夫だが、

この苦しみを乗り越えるためにぶっ飛んだ解釈を思いつく。

妻が健康な時は、嫉妬に苦しめられた。

しかし、その時の苦しみよりも、

今、病身の妻から加えられる苦しみの方が柔らかいと感じる。

つまり、自分は妻が病気でいる方が幸せなのだということになる。

妻はそんな風に言い出した夫にすら食ってかかる。

とにかく、妻は夫のすべてが気に入らないのだ。

夫は妻の介護にも疲れ、生活が困りだしていることも心配していた。

しかし、この逆境を自分の腕一本で乗り越えられるか、

試してみたいという考えも持っていた。

そうは言っても、泣き言を繰り返す妻に、

夫はそろそろ自分もくたばりそうだと言ってしまう。

すると妻は、しおらしく「わたしはワガママだった」と言い出すのだった。

そんな時、医者に「あなたの妻はもうだめだ」と申告される。

彼は医者からの帰り道、妻の元に帰りたくないとさ迷う。

帰らなければ、彼女はずっと生きている、そんな幻想にすがりたくなっていた。

夫は泣き、ただ黙々と妻の介護をする。

それだけが、夫が彼女に与えられる全てであった。

妻は医師から死の宣告があったことを感じ取り、

夫に本音で「苦しめてしまいごめんなさい」と謝る。

そして、遺書の存在などを明かすが、

これ以上悲しいことを言うのは止めてほしいと、

夫は妻が死にゆくことを受け止め切れていない。

しかし妻は自分が死んだ後の不安まで訴え始め、

夫には妻の死が近いことを認めざるを得なかった。

そして、彼らは静かに最期の時を向かえようとしていた。

そこに知人からスイートピーの花束が贈られてくる。

春の訪れを彼らはそっと、噛みしめるのだった。

4.夫の愛が宿るのはラストシーンだけなのか?

『春は馬車に乗って』は病身の妻を介抱する夫が、

その妻自身の口でもって散々当たり散らされるシーンで

作品の3分の2以上は占められています。

なんとも殺伐とした内容で、

思わず似たようなシチュエーションを作品にした

堀辰雄の『風立ちぬ』の静謐な世界観と

比べてしまいました。

しかし、奥さんが病気の辛さのせいか怒り狂って

夫に当たり散らしているシーンはどこかデジャヴを感じさせるんです……

というか、自分にもものすごく、身に覚えがあるというか……

で、思い出したのが息子を妊娠・出産している時の感覚でした。

妊娠・出産は女性だけのもので、

つわりやら、寝苦しさやら、陣痛の終わり見えない痛みやら……

男性には言葉を尽くしても伝わる気がしません笑。

他にも、陣痛よりはマシですが、生理の前後、最中の辛さも

男性には伝わらない苦しみとして、近いところにある気がしますね。

でもそういう時って、理性では「この辛さは夫のせいではないし、

辛い気持ちが100%伝わるわけがないのだ」と思っていたとしても、

心では「あー、なんか呑気にお酒とか飲んでるし!」と

気分が荒ぶるのを止められるものでもないんですよね^^;

この感覚に、『春は馬車に乗って』の妻が陥っていた境遇は

近いのではないか? とデジャブの正体を考えていて思い当たりました。

なるほど、そりゃ当たり散らしたくもなるわ……と

女性は共感できる部分があるのではないかと思います。

男性にはわかりづらくて恐縮なんですが……そうですねー、

「仕事頑張って少ない小遣いでやり繰りしてんのに、

奥さんは友達と高いランチ食べてた」時の気持ち、

がわりと近いのかな?

要は埋められない男女の差というやつですね。

作品中の夫=横光は、よく辛抱していると思います。

このように『春は馬車に乗って』は、妻の闘病生活に疲労困憊する

夫の感情がメインの作品です。

とはいえ、作品の最後は穏やかな夫婦の会話で締められ、

そこに夫の妻への愛情が感じられる作品である、

というのが『春は馬車に乗って』への一般的な評価らしいです。

しかし、私は夫への愛情が感じられるのは最後のシーンだけか?

とこの評価を読んだ時に疑問を感じました。

というのも、この作品の3分の2以上を占める、

妻の夫へ当たり散らすシーンですが、

横光は、本当に奥さんのことをよく見ていたのだな、と

感心させられるものがあるんです。

作品は終始、夫の視点で物語が進みますので、

話の中心になるのは夫の感情です。

でも、奥さんがどんなことを言った、

病状はどう進んだか、

そういった細かいところを、実によく作品に落とし込んであります。

もちろん、妻の介抱をしている時に、この経験を作品にしよう!と

思いついて、それゆえに記憶にとどめるなり

メモするなりもしたのかもしれません。

それでも、ここまで細かく奥さんの様子を克明に記録していることに、

夫の妻への愛情を根底に感じます。

勝手なたとえですが、育児日記をつける母親の心境や、

いろいろな記念日を作りたがる付き合いたてのカップルに

近いものがあります。

よく記憶している、よく見ているということ事の裏には、

対象への愛情が隠れているものなんですよね。

『春は馬車に乗って』の穏やかな終わり方に、

愛妻への鎮魂の思いが込められているのだ、

と言われているそうですが、

いやいや、3分の2以上の嵐のシーンも、

十分に妻への愛情を伝えていると、私は思いました。


いかがでしたでしょうか?

亡妻シリーズの他の作品は別ページで紹介しております。

興味がある方は覗いてみてくださいね。

『春は馬車に乗って』とは、まったく違う魅力をもった

作品なんですよ。

それでは、ここまで読んでくださってありがとうございました。

よろしければ感想など、コメントに残していってくださいね。

亡妻シリーズの他の作品についてはこちらからどうぞ↓

妻の罵倒にすら愛は宿る『春は馬車に乗って』 横光利一:読書感想” に対して2件のコメントがあります。

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