美しい世界観の中に潜む人間くささ:堀辰雄の『風立ちぬ』(読書感想)
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以前、宮崎駿監督が同タイトルの映画を発表したことで
本作品を読んでみたという方も多いのではないでしょうか。
宮崎駿作品の『風立ちぬ』は、堀辰雄の小説作品と、
飛行機製作者の堀越二郎の生涯をミックスした
オリジナル作品のようです。
映画のなかで、主人公は結核に病んだ女性と出会い、
結婚する展開がありますが、その部分が小説『風立ちぬ』を
意識して作られた部分だと思われます。
堀辰雄の『風立ちぬ』は、後であらすじもご紹介しますが、
結核に侵された婚約者の節子と、主人公である青年の
静かで物悲しい、ラブストーリーです。
物語の舞台のほとんどは山奥のサナトリウム病院で
周囲の山々を透明感ある美しい日本語で描写してみせた点が、
多くの人々に支持されている作品です。
美しい自然をあふれる場所を舞台にした純愛ストーリー、
この響きだけで魅力を感じます。
しかし、私はこの作品に落とし込まれている「人間臭さ」にも
注目をしてほしいと思っています。
純愛に人間臭さとは、また似合わない言葉の組み合わせなのですが、
どんなところに人間臭さを感じたのか、あらすじとともに、
感想を書いてみましたので、
よろしければ読んでいってくださいね。
目次 1.おおまかなあらすじ
2. 純愛のなかに隠れる「人間臭さ」の正体とは?
3.有名な一文「風立ちぬ、いざ生きめやも」
1.おおまかなあらすじ
『風立ちぬ』のおおまかなあらすじからご紹介しましょう。
主人公の青年は小説家。
婚約者の節子は結核に侵されており、山奥のサナトリウムに
入院した方がいいと言われている。
しかし節子の父親は娘を一人で送り出すのが不安で
主人公に「ついていってやってほしい」とほのめかす。
主人公は、幼いころからの憧れ、「山奥で愛する人との静かな暮らし」を
実現できるのでは、という期待もあり、節子についていくことを承諾する。
2人はサナトリウムで美しい山々の風景を見ながら
2人だけの静かな、完璧な愛の生活を楽しんで暮らす。
しかし、節子の病は思ったよりも重く、
一時は、このまま死んでしまうかもしれないというところまでいく。
そこからなんとか持ちこたえた節子に、主人公は、
自分たちを主役にした小説を書こうと思う、と伝える。
2人の今の暮らしが幸せであった証明を、残したいと思ったのだ。
節子もそれに同意し、主人公はせっせと小説を書いていく。
そうしている間にも、節子の病はどんどんと重くなっていく。
主人公が感じていた幸せは薄れ、恐ろしい予感に思い悩むようになる。
そして、節子自身も自分の死を予感して弱気になります。
主人公は思わず聞きます「お前、家へ帰りたいのだろう?」
そして節子も「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」と
その心情を主人公に漏らします。
次の章からは場面が変わり、1年後、主人公がサナトリウムの近くの村の
そばにある小屋に移り住むシーンに飛ぶ。
その小屋で孤独に暮らす主人公に、
既に死んでしまった節子の影が寄り添うように付きまとっている。
しかし、やがて節子の影の存在感も薄れていき、
その感覚に主人公は寂しさを感じながらも、
彼女のいない人生へと、少しずつ回復していくところで終わる。
2. 純愛のなかに隠れる「人間臭さ」の正体とは?
まだ若い2人が死の影に怯えつつもお互いを愛し合う姿は
もの悲しくも美しいですね。
純愛という言葉がよく似合う作品だと思います。
最近の作品でいうと『世界の中心で愛を叫ぶ』を思い出させます。
(最近でもないか……)
しかし、冒頭でも書いた通り、この作品に落とし込まれているのは純愛のみならず、
しっかりと「人間臭さ」も書き込まれていると思うんです。
どの辺で「人間臭さ」を感じたのか、主な箇所をピックアップし、
「人間臭さ」の正体がなんだったのか、考えてみました。
まず、主人公が節子についてサナトリウム行きを決める理由に
注目してみましょう。
主人公は、幼いころから「山奥での愛する人との2人の生活」というものに
漠然とした憧れを抱いていたと述べています。
その憧れが実現するかも、と主人公は思わず期待を持ってしまい、
サナトリウム行きを決意する要素となりました。
しかし、『風立ちぬ』が書かれている時代、結核はまだ死の病です。
2人揃ってまた街の暮らしへ戻ってこられる可能性の方が低いということは、
主人公も漠然と予感していたはずです。
節子と出向く場所は、憧れの条件にピッタリくるような場所なので、
憧れが実現することに期待をしても仕方ないかなあ、
とは思いますが……少し主人公の心情にちぐはぐな感覚を受ける部分です。
ただ……なんとなく憧れる気持ちは分かりますね。
誰にも邪魔されない2人だけの世界、というのは
人を好きになったことのある人なら、
誰でも一度は考えるシチュエーションではないでしょうか。
そして、次に注目したのは作中で、主人公が書く小説です。
どんな小説なのか、ほとんどは本作品『風立ちぬ』と
同じような内容の小説を書いていたようですが、
作中にどんな作品なのかを、簡単にまとめてくれているので、
その部分を抜粋してみました。
”男は自分達の愛を一層純粋なものにしようと試みて、
病身の娘を誘うようにして山のサナトリウムにはいって行くが、
死が彼等を脅かすようになると、
男はこうして彼等が得ようとしている幸福は、
果してそれが完全に得られたにしても彼等自身を満足させ得るものかどうかを、
次第に疑うようになる。――が、
娘はその死苦のうちに最後まで自分を誠実に介抱してくれことを男に感謝しながら、
さも満足そうに死んで行く。
そして男はそういう気高い死者に助けられながら、
やっと自分達のささやかな幸福を信ずることが出来るようになる……”
この小説は言うまでもなく現状の主人公と節子の生活を
そのまま書いた内容です。
「節子がもし死ぬとしたら、こうあってほしい……」
そんな隠れた主人公の願望がしっかりと出ちゃってます。
彼はこの筋書きを思いついた後、恐怖と羞恥にかられています。
この筋書きを思いついたとき、節子はまだ生きていますからね……
主人公のロマンチストな性格がよく出るとともに、
人間の人生の中心は、どんな時も自分目線になるものなのだな、と
思わせる部分でした。
しかし、彼は自分の思いついた 小説=理想 の追求を
結局、止めることはなく、
むしろ加速させていく様子にも「人間臭さ」を感じさせる部分があります。
主人公は、現実世界から逃避するように、
紙とペンの世界に没頭します。
とにかくちょっと節子をほったらかしにしてまでも、小説を書きまくるわけですが
その合間に、節子本人に「今の生活に満足しているかい?」と
尋ねるようなシーンがあります。
彼が小説に書いている理想としては、
「節子は恋人の献身により、サナトリウムでの生活に満足していなければならない」のです。
しかし、小説を書くことに神経を注いでいる主人公の生活の中心に、
節子はいません。
現実がそんな状態にも関わらず、
自分の望む答えが欲しいために、
思わず、節子に「満足しているか?」と聞いてしまった……という感じがします。
この主人公の気持ち、私は痛いほどわかります。
自分以外の誰かに、「これで合ってるよね?」と認めてほしいがために、
あえて質問の形で肯定を求める行為、日常でもよくやってしまいます……
とても自己保身的な感情なので、後でものすごく後悔することが多いんですけどね^^;
そして最後に注目してみたのは、節子の病がいよいよ進行した後のシーンです。
節子の体調のために、2人は一緒の病室にいる時間が限られるようになります。
主人公はその時、心配するとともに、
本音では少しホッとしているようでした。
恋人の死が近付いているというのに不謹慎な……
という思いもしましたが、
なんとなく、安心する気持ちもわからんでもない気がします。
この時の主人公は、理想と現実の狭間で苦しんでいる時でした。
自分の理想では、主人公は献身的に娘を介抱しますが、
現実の自分が節子にしてやっていることは、
小説に書いているような理想を押し付けているのにすぎないのではないか。
そんな考えに囚われていたのです。
恋人の死を目の前にして、主人公は自分の思考の身勝手さに
自分でも愕然としていました。
そんな時に、節子のそばから離れられるまっとうな理由が与えられたんです。
正直、一人になって考える時間がおあつらえ向きにできて、
安心するのは人間なら仕方ないと思います。
このように、『風立ちぬ』の主人公は、
矛盾と葛藤を抱えた人物であることが読み進めると分かるようになってきます。
主人公の心の中には常に節子がいるのですが、
ただ目の前の節子に純粋に愛情を注ぐだけでは満足できないんです。
自分の理想を現実化したいと考えてしまい、
それを節子にも直接伝えることはないけれど、
態度で、言葉の節々で伝えてしまうことを止められないと、
主人公は作中、思い悩み続けるのです。
この主人公の心情を一言で表すとしたら、
「エゴイズム」という言葉が当てはまるかなと思います。
「エゴイズム」なんて、ものすごい「人間臭い」感情ですよね。
ただ、人間の感情としてはとても自然だな、と一方で思うのです。
主人公の思考は確かに自己中心的ではあるけれど、
「なんとなくその気持ち、わかる」
という感情ばかりなんです。
恋人が死の淵に立たされているという特殊な状況じゃなければ
目立つこともない、当たり前の感情が、
しっかりと『風立ちぬ』のなかには埋め込まれています。
これが、私が『風立ちぬ』に感じた人間臭さの真の正体だと思います。
そして、『風立ちぬ』がすごい作品だと思うのは、
作品の持つ美しい世界観は一切壊すことなく、
さらーっと人間臭い感情を忍ばせるようにして書き込んでいることなんですよね。
実は初めて読んだ時には人間臭さなど感じることなく、
「純愛だなあ……」とそのまま受け止めていました。
私小説といって、作家の人生に実際にあったことを
そのまま小説にする作家は多いんです。(特に青空文庫には多い!)
堀辰雄の『風立ちぬ』も私小説の一つなんですが、
ここまで作品として深みのある作品にしたてているのは珍しいと思います。
これぞ堀辰雄の筆力!
最後に、蛇足な感じですが、主人公のことばかり書いてきたので、
節子の立場で考えてみました。
彼女の本心というのは、主人公視点の作品なので、
主人公から見た節子の様子から推し量るしかありません。
彼女は、主人公からの「今の生活に満足しているか?」との
質問にも「なぜそんなことを訊くのかわからない」とほほ笑みます。
そして、主人公が長い散歩に出かけてしまうと、
その姿を探して待ち続け、帰ってきたことがわかると
嬉しさに顔を輝かせたりするのです。
なんて理想的な恋人の姿なんでしょう!
主人公のほうがメンタル的には支えられているかのようです。
しかし節子は、主人公の心の葛藤に気づかずに、
自然体で理想の恋人をしていたのでしょうか?
そうではないことが、彼らが最後に2人で登場するシーンに
集約されています。
節子が、沈みつつある夕日に照らされた山を見て、
父親を思い浮かべるシーンです。
最初読んだときは、このシーン、すごく違和感があったんです。
節子さん、はしゃぎすぎてやしないか? と。
成人した女性が、横に恋人がいる状況で、
父親を思い浮かべてはしゃいだ様子を見せると言うのは、
どうも変ですよね。
このあとに続く、2人の会話を読むと、その謎が解けます。
「お前、家に帰りたいのだろう?」
「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」
……ここでの生活がどこかおままごとめいて、
理想を目指し過ぎて疲れてしまった、
そんな節子の思いが滲み出ている気がします。
結局は、節子も主人公と同じように、
サナトリウムでの恋人らしい生活に理想を求め、
演じていた部分もあったのだな、と
この会話だけで伝わってきました。
彼女も、自分のエゴイズムを求めて葛藤を抱えていた一人だったようですね。
3.有名な一文「風立ちぬ、いざ生きめやも」
『風立ちぬ』の最初に出てくる印象深い言葉、
「風立ちぬ、いざ生きめやも」。
『風立ちぬ』といえば、この一文、というほど有名な一文なので、
この文章について、少し触れておきましょう。
古語も使ってあるので、意味がとりづらいのですが、
訳すると「風が起きた、死んでもいいよなあ」くらいの
意味になります。
元々はフランスの詩人、ポール・ヴァレリーの詩の一部で、
「風が起きた、生きなければ!」くらいの強い意志を感じさせる
文章なのだそうです。
なので、堀辰雄の誤訳だ、と言われているようですね。
ただ、作品自体のテイストを考えると、
堀辰雄訳の方がしっくりくるのは間違いありません。
『風立ちぬ』のような繊細でもあり、
人間の心情をしっかりと織り込んだ作品を書くような作者が、
単なら誤訳で、一文の意味を正反対に捉えるというのは、
どうにも違和感のある話だなと思います。
これは堀辰雄がヴァレリーの詩集を読んで
「そうは言っても……」とあえて、
真逆の意味で恋人にささやいたのではないかなあと
思うのです。
これはもう、自分の説を確かめるために、
ヴァレリーの詩集から読むしかないなと思います。
詩を読むのは超がつくほど苦手なんですけどね^^;
今後の読書目標にしようと思います。
いかがでしたでしょうか?
『風立ちぬ』に私が感じた魅力を、少しでも
多くの方に知ってもらえたら嬉しいです。
書いている間にも何回も読み返したくなりました笑。
それでは、ここまで読んでくださってありがとうございました。
よろしければ、感想など、コメントに残していってくださいね。