凶暴な殺人鬼?それとも……脱獄した少年死刑囚をめぐるミステリ+人間ドラマ『正体』読書感想

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今回ご紹介する本はこちら

正体  染井為人  光文社文庫

これは久しぶりに本当に面白い作品に出会えました。文庫本サイズにしてはぶ厚めのボリュームでしたが、それが全く気にならない面白さです。

本作はジャンルで言えばミステリ。死刑判決を受けた青年が脱獄し「なぜ脱獄したのか?」という問いを追いかけていくことになります。

ですが単なる謎解きにとどまらず、脱獄班の青年が行く先々で出会う人々との繊細でみずみずしい人間ドラマが展開されます

登場人物への共感、シンクロを呼ぶ素晴らしい文章力、表現力です。

読んでいる時、「先が気になって早く最後まで読み終わりたい」という気持ちと、「まだこのお話の中にひたっていたい」という矛盾した気持ちが戦っていました。

この素晴らしい作品が放っておかれるはずもなく、ドラマ化もされています。しかしざっとドラマ版のあらすじをみたところ、放送時間や話数の制限もあるためあらすじには変更もあるようで……

ドラマ版のような縛りのない原作小説をぜひ楽しんでいただきたいとおススメします!

それでは、あらすじと感想をまじえながらご紹介していきましょう。


1.おおまかなあらすじ

まずはおおまかなあらすじをご紹介しましょう。

お話はニュース速報から始まります。

逃走したのは1年半前に事件を起こした鏑木慶一。事件当時18歳だった彼は幼い子供を含む一家3人を刺殺、死刑判決を受けていました。しかし彼は拘置所を脱走してしまいます。

ここまでがプロローグ、そして第1章からは鏑木が脱獄してからいきなり455日後、1年以上経過したところから始まります。

物語の舞台は高齢者施設のアオバ。常に介護の人手不足に悩むアオバで、ある日、一人の青年がバイトの採用面接にやってきます。即採用された青年は入居者からも、同僚からの評価も上々ですぐにアオバにとって欠かせない人材となります。青年は懸命に働きますが、その正体と目的は……?

2.脱獄犯の「正体」は?

おおまかなあらすじとしてご紹介したのは第1章のさわりの部分。第1章を読み終え、「さあ、ここからどうなる!?」と期待が高まったところで、実はお話の時間軸は一気に過去へと飛んでしまいます

「第2章 脱獄から33日」

これには「ええーーー!!??」という感じでした。第1章を読むと、誰が脱獄犯か確信はないものの、「この人で間違いないだろう」という登場人物がすぐにわかるようになっています。そして、脱獄犯がなぜ1年以上も逃走を続けているのか、真相は見抜きようもないですが「これが目的だな?」というおぼろげな輪郭だけは見えてくるのです。

それなのに……^^; 脱獄犯の行く末は物語の終盤までお預けです。

しかし! ここで「がっかりー」と本を閉じてはいけません。

この後、物語は脱獄犯がどのようにして「第1章 脱獄から455日」に辿り着くことになるのか、その過程が読んでいくことで明らかになっていくのです。

そして、この455日に到達するまでの過程に、ミステリとしても、人間ドラマとしても本作の魅力がつまっています。

お話の中の時間が「第1章 脱獄から455日」に追いつくまでに「第2章」~「第5章」まで4章を読んでいくことになるのですが、この章ごとに主人公が変わっていきます

建設現場で働く若者、キャリアウーマン、落ち目の弁護士、新興宗教にはまる主婦。

年齢も仕事も住んでいる場所もばらばらな4人の主人公たち。彼らはそれぞれの日常を過ごしており、彼らの目線で物語は進んでいくのですが、そのそばには「脱獄犯」の影が見え隠れしています。

脱獄犯である鏑木慶一は偽名を使い、変装を使い、あらゆるところに潜伏して逃走生活を送っているのです。だから、主人公たちは最初は「脱獄犯」とは気づかずに話したり、食事をしたりと人間関係を築いていくのですが……

主人公たちがどうやって脱獄犯の「正体」に気づくのか、各章のポイントになっています。

しかし、各章で明かされるのは「誰が脱獄犯か」という意味の「正体」だけではありません。

「脱獄犯がどんな人間なのか?」という意味でも「正体」が明かされていく仕組みになっています

「脱獄犯だから」「殺人を犯した人間だから」「死刑囚だから」……だから? だから本名・鏑木慶一という青年は見た目からして酷薄な容貌をしており、その口から吐き出される言葉は悪意に満ちている? ……いいえ、そうではありません。

偏見を抜きにして、脱獄犯とは知らずにその青年と接すると、彼の優秀な一面、まだ世間知らずの幼い一面、人を思いやれる一面……彼の「正体」が見えてくるのです。

こういう仕組みの本なんだと気づくと、各章の主人公の設定が実に巧妙であることもわかります。

脱獄犯である一人の青年にとって、主人公たちの立場は「年の近い友人」であったり「恋人」であったり……人間関係のいろいろな側面から脱獄犯の内面に迫っていけるようになっているわけです。

こうして脱獄犯のいろいろな「正体」を知っていくと、自然に彼についての問いが生まれていきます。

「なぜ脱獄したのか?」「なぜ逃げ続けるのか?」「なんで殺人を犯したのか?」……「あなたは本当に殺人を犯したのか?」

各章の主人公たちとのやりとりを読んでいくうちに、そもそもの疑問が湧きあがります。「なぜ?」で始まっていたミステリが形を変えていきます。

本作がミステリとして面白い理由はここにあると思います。

ちなみに、悪人と思われていた青年の「そうではない一面」をあぶり出す作品としては『悪人』(吉田修一、朝日文庫)があります。殺人を犯してしまった青年と出会った女性の視点で、彼の人間性をえがいていく内容です。「殺人者よりも世の中には悪人と呼ばれるに相応しい人間がいるのではないか?」という哲学を持った面白い作品ですよ。

3.人間は変われる

変わっていくのは謎だけではありません。脱獄犯と深く関わる主人公たちも、脱獄犯との出会いと交流の中で、変化していきます

例えば、第2章の主人公である野々村和也くんにご登場いただきましょう。

野々村は20歳を少し過ぎたあたりの若者で、建設現場で働いています。野々村には特定の住所というものはなく、建設現場の仮説住居で寝泊まりし、各地を転々とすることで生活費を稼いでいます。

野々村のそれまでの人生も今の生き方のように根無し草のような生活でした。両親からは愛されず、学校にもまともに通わず、非行少年たちの輪からもはみ出し……野々村の人生はまだ短いといえる年数しかないですが、居場所として安心できる場所を見つけられた時間はほとんどない、というのが実感だったのではないかと思います。

しかし、これには野々村の方にも理由があるようです。野々村の性格は「臆病」と表現できるでしょう。力も弱く、知識や経験も浅い野々村は、危険な目に遭いそうなとき「逃げる」という選択肢しかとれないのです。野々村が唯一その力を信じているのは「金」ばかり

若いのに寂しい人生観を持った青年ですが、野々村は脱獄犯と出会うことで、その価値観が少しずつ揺らいでいきます。

自分にはなんの得にならなくとも、他人のために動く人間がいること

金だけが人間関係の基準ではないこと

少しの知識でも、知ることで楽しいと思えることがあること

そして過去に何があろうと、今、目の前にいる人間がどんな人間かが一番大事であること

野々村は少しずつ変わっていき、章の最後では驚きの行動に出ます。

臆病だった彼の性格からは想像もつかない大胆な行動です

さらにその行動をとった理由を考えると……野々村は脱獄犯から与えられた「たった一言」が、本当に嬉しかったのだと思います。

脱獄犯が野々村に与えた影響は、一人の人間の価値観を変えるほどの大きさでした。

野々村はわかりやすく人生に問題を抱えている青年でしたが、それ以外の主人公たちも大なり小なり、日常に不満や不安を抱えています。脱獄犯との出会いは彼らの日常、そして人生観を変えるようなインパクトを与えています。

小説の中で大切にされているのは脱獄犯の行く末だけはありません。ぜひ、各章の主人公たちの人生が変わる人間ドラマにも注目してみてください。

4.生き生きと動く登場人物たち

『正体』は作品の構成自体がものすごくよく練られているのですが、私は作者である染井為人さんが書く文章も素敵だなと、読みながら感じていました。

染井さんの書く文章からは、実に登場人物たちが生き生きとして感じられるんです。

各章の主人公たちは年齢、性別、仕事も全然違う人たちです。私が歩んできた人生とはかけ離れている人物もいます。それでも、これまでの人生の辛さやコンプレックスを想像させ、世の中に抱いている不満や不安をリアルに感じさせてくれました。

中でも、私が一番心動かされたのは最終章の主人公・酒井舞です。

彼女は10代の普通の女の子ですが、彼女のみずみずしい魅力といったら! 

慣れない仕事にも真剣に取り組み、家に帰れば愛する父母と楽しく語らい、もう間もなく死期を迎える愛犬をこよなく慈しみ……なんというか、目の前のことに一生懸命に生きてるな! という性格の真っ直ぐさ、素直さがよく伝わってくるんです。

舞の見えている世界はごく狭いです。ほとんど実家と職場、わずかに友達くらいです。でも、この狭い世界の中で彼女は毎日を着実に生き、一つの経験から豊富な学びを得て、少しずつ世界を広げながら大人の女性へと脱皮していっている途中なんだな……と若さという魅力を感じさせてくれます。

舞の目を通してみる世界は平凡だけどキラキラしているようでした。

他の登場人物たちとは違う世界観が広がっていて、染井さんの表現力の多彩さに驚かされます

舞は一言でいうと「良い子」。最終章を飾るにふさわしい魅力あふれるヒロインでした。彼女にはもう一度別のどこかの作品で再会してみたいくらいです。

5.賛否両論ありそうな最後

ネタバレ防止のため、一切どんな最後だったかは触れません。しかし、賛否両論巻き起こりそうな最後だったということだけは言えます。

おそらく「こうだったらいいのにな」とどこかの童謡のような想像を巡らせたくなる方もいらっしゃるでしょう。アレコレ、最後を改変したくなる気持ちは私も感じました

しかし、この最後は作者さんが「どうしても」伝えたかった、日本の司法への疑問とアンチテーゼです。本作で採り上げているようなことは、大なり小なり、現実世界でも起こっていることなのではないか、と少しでも多くの人に考えてもらいたいというメッセージです。

最後は衝撃もありつつ、しかし後味の悪さは残さないように工夫されていますので、これはこれでいい最後だったと私は思っています。

ただ、ドラマ版ではもしかしたら変更も有り得るかもな……と思うので見られる方は確認してみてください(私は残念ながらみられる環境にありません……)

ちなみに、ドラマ版のキャストを見ると「なるほど!」と声に出るくらいイメージぴったりの配役でした。

日本の司法制度、特に死刑をテーマにした作品には他にも『13階段』(高野和明、講談社文庫)があります。死刑される側ではなく、死刑する側の苦悩をリアルに表現してあり、視点の新しさと作者の表現力に衝撃を受けた作品です。こちらもおススメです。


いかがでしたでしょうか?

冒頭の繰り返しになりますが、本当に面白い作品です。たくさん本を読んでいると、実はちょっとやそっとのことでは「これは当たり!」と思わなくなるという困った悩みを持つようになるんですが、これは滅多に出会わない「当たり」の作品です。

ぜひ原作小説もたのしんでみてくださいね。

今回ご紹介したのは脱獄後をメインにした作品でしたが、脱獄そのものを語った『破獄』(吉村昭、新潮文庫)という作品もあります。戦中、戦後を舞台に脱獄名人・佐久間清太郎と看守たちの攻防をえがいています。佐久間が繰り出す驚きの脱獄方法に「次はどうなる?」と期待と緊張感が高まる1冊でした。佐久間の脱獄の方法は型破りですが、そうは言っても現在の刑務所の警備体制の方が格段に堅牢なはず。比べてみると『正体』の脱獄犯の頭の良さと行動力のすごさに説得力が出ますよ。

それでは、ここまで読んでくださってありがとうございました!

よろしければ感想など、コメントに残していってくださいね。

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